曲がった前脚を理由に捨てられた子犬が、一人暮らしの老人と見つけた小さな居場所

「退院した後、落ち着いて休める場所も要ります」

加代子は自分の団地の部屋を思い浮かべた。動物を飼えない決まりだった。ここで一緒にいられる時間を増やすことはできても、夜中の寝息を確かめることはできない。

その話を聞いた茂は、見積もりの数字より先に、通院の予定表を見た。

「どれくらいの間隔で行くんですか」

山岸が分かっている範囲を答えた。茂は手帳に書きつけ、すぐに引き取るとは言わなかった。

その日の帰り際、加代子に古い携帯電話の写真を見せた。

庭先で椅子に座る女性が写っていた。足元には低い踏み台がある。

「家内です。二年前に亡くなりました」

生まれつき背骨に不具合があり、年齢とともに歩くことが難しくなったのだという。

「家の中は、段差をずいぶん減らしてあるんです」

茂は写真を閉じた。

「ただ、犬とは暮らしたことがない。そこは別に考えないといけないな」

加代子は、その言葉を聞いて少し安心した。

ハルの具合が急に悪くなったのは、それから数日後だった。

夕方の片づけが終わっても、加代子は帰れずにいた。ハルが昼からほとんど食べず、いつもなら顔を上げる物音にも反応が鈍かったからだ。

毛布の上で丸くなった体を見ると、腹が浅く速く動いていた。

名前を呼ぶ。耳がわずかに動いただけだった。

加代子は山岸を呼び、夜間も対応する動物病院へ向かった。車の後部座席で運搬用のかごを押さえている間、ハルの呼吸の音ばかり聞いていた。

病院では酸素を使った処置が始まった。肺炎が疑われ、もともとの衰弱や脱水も重なっていると説明された。

曲がった脚だけを見ていた自分が、加代子には急に心細く思えた。見えているもののほかにも、この小さな体には負担があった。

連絡を受けた茂が来たのは、日付が変わる前だった。

仕事着の上に上着を羽織り、手には施設から頼まれたハルの記録を持っていた。

加代子は待合室で立ち上がった。

「私、帰っていたら気づかなかった」

茂は返事を急がず、隣に座った。

「今日は、いてくれたんでしょう」

それきり二人とも話さなかった。

しばらくして獣医師が出てきた。処置に反応は見られるが、今夜のうちに安心できる状態ではないという。

短い面会の間、ハルは横になったまま目を開けた。加代子が声をかけると、視線が少し動いた。

「ハル。ここにいるよ」

立つ必要はなかった。尻尾を動かす必要もなかった。加代子は、ただその胸が次も上がるのを待った。

入院は一週間を超えた。

その間に茂の家を山岸が訪ね、加代子も同行した。平屋の古い家で、廊下には滑りにくい床材が敷かれ、庭へ出る掃き出し窓には緩やかな傾斜がついていた。

亡くなった妻のために直したところだと、茂は説明した。

「使わなくなってから、物を置いてしまってね」

傾斜の途中にあった植木鉢を、茂は一つずつ移した。

預かる場合の食事や排泄、留守の時間、病院までの移動について話した。茂は近所の作業場へ週に二度通っていた。犬が落ち着くまでは仕事を減らせるが、ずっと休むことはできないと言った。

「手伝いは必要になります」

山岸の言葉に、茂は少し顎を引いた。

「分かっています」

けれど加代子には、その返事がどこか固く聞こえた。

手術は呼吸や食欲が落ち着いてから、改めて検査を受けたうえで行われた。左の前脚を元どおりにするためではなく、痛みや日々の負担を軽くするためのものだった。

費用は施設で蓄えていた治療費と寄付でまかない、茂はその後の暮らしを担う準備をした。

手術の終わりを知らせる電話を、加代子は洗濯機の前で受けた。濡れた毛布を抱えたまま、何度もうなずいていた。

後日の面会で、ハルはまだぼんやりした顔をしていた。茂が床へ置いた手を見つけると、鼻を伸ばした。

「板を作ったおじさんだよ」

加代子が言うと、茂は困ったように笑った。

「ほかに覚えようがないか」

ハルの尻尾が敷物を擦った。二人は声を落として笑い、その小さな音をもう一度待った。

退院後、ハルは正式な譲渡の前に、茂の家で暮らしてみることになった。

最初の日、加代子は施設で使っていた毛布を届けた。窓辺には低い寝床があり、食器の下には音を吸うマットが敷かれていた。

ハルは玄関の内側で立ち止まった。新しい床を嗅ぎ、居間の入口を見てから、また玄関へ顔を向けた。

茂はリードを強く引かなかった。上がり口の脇に座り、靴を脱いだまま待った。

先に動いたのはハルだった。三歩進んで止まり、もう三歩進んだ。

毛布にたどり着くと、前脚を折りたたむようにして伏せた。目は開いていたが、やがて顎が下がった。

加代子が帰るとき、ハルは顔を上げた。

呼ばずに戸を閉めることが、思ったより難しかった。

翌朝、茂から電話があった。

「食べました。少し残したけど」

それから、ひどく真面目な声で続けた。

「私が朝飯を食べる間も見ていた。何もやらなかったけど、あれでよかったんですよね」

加代子は台所で笑った。

「私も見られます。食べにくいですよね」

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