曲がった前脚を理由に捨てられた子犬が、一人暮らしの老人と見つけた小さな居場所

茂も電話の向こうで笑った。

順調なことばかりではなかった。

外で排泄することに慣れるまで、ハルは室内で何度も失敗した。茂が雑巾を持って近づくと、体を縮めた。散歩から戻るころには疲れ、入口の手前で動かなくなる日もあった。

茂はそのたびに山岸へ聞き、次に加代子が訪ねると、教わったことを手帳に書いていた。

ただ、手伝いに来る日を決めようとすると、いつも曖昧になった。

「今のところ、何とかなっていますから」

加代子が床の毛を掃除し始めると、茂は自分でやると言った。洗い物を流しへ運んだときには、少し強い声が出た。

「そこまでしてもらうつもりで、頼んだんじゃないんです」

加代子は茶碗を置いた。

「でも、ハルの世話だけでも大変でしょう」

言ってから、茂の顔が変わったのに気づいた。

ハルは二人の間を見上げていた。茂が手を下ろすと、その指先を嗅いだ。

加代子は掃除道具を元へ戻し、長居せず帰った。

次に訪ねたのは五日後だった。茂から、通院のあとに話したいことがあると連絡が来た。

ハルは少し体重が増えていた。毛の間から浮いていた背中の骨が、前ほど目立たない。加代子の靴を見ると、毛布から起き上がった。

以前のように床を這うのではなく、右の前脚と後ろ脚で体を支え、ゆっくり近づいてきた。

途中で茂を振り返る。茂は何も言わずに見ていた。

ハルは加代子の膝へ鼻を押し当てた。

加代子が背中を撫でると、尻尾が左右に動いた。撫でる手を止めても、ハルは離れなかった。

「覚えてたの」

声が揺れた。加代子は顔を下へ向け、もう一度、首の後ろを撫でた。

茂は台所で湯を沸かしていた。やかんを持つ手が少しぎこちなかった。

「手首、どうかしたんですか」

「昔からです。使いすぎると痛む」

椅子に座ると、茂は手帳を開いた。食べた量と排泄、薬を使った時刻が几帳面に書いてあった。

「夜に起きると、朝、ちょっとぼんやりしてね」

そこで言葉が途切れた。

ハルは加代子から離れ、水を飲みに行った。飲み終えると、台所へ向かう茂の後ろを追った。

敷物の継ぎ目で右の前足が滑り、体が横へ傾いた。

茂はすぐに振り返ったが、かがみ込む途中で手を止めた。ハルは立とうとして、また腰を下ろした。逃げはしなかった。ただ茂の顔を見上げていた。

「抱いてやりたいんだけどな」

茂の声は小さかった。

加代子は立ち上がったが、すぐには近づかなかった。

「私も一緒に、支えましょうか」

茂はハルを見たまま、うなずいた。

「お願いします」

二人で体を支えて寝床へ戻した。ハルは毛布に伏せると、茂の膝に顎を預けた。茂が座り直しても、その顎は離れなかった。

茂は自由なほうの手で耳のつけ根を撫でた。

「これくらい、一人でできると思ったんです」

加代子は椅子に座らず、床に膝をついた。

「私も、聞けばよかったです。何をしてほしいか」

茂は返事をせず、ハルの毛を指で分けていた。

しばらくしてから手帳を引き寄せた。

「火曜の午後、来てもらえますか。作業場へ行く日に」

加代子は自分の予定を確かめた。

「毎週なら、木曜のほうが確実です」

「じゃあ、仕事の曜日を相談してみます」

その日のうちに、全部は決まらなかった。山岸とも話し、通院の送迎や、茂が体調を崩した場合の預かり先を一つずつ確かめることになった。

ハルは話の途中で眠った。茂のズボンには、顎の重みでできた小さなくぼみが残った。

正式な譲渡の手続きが済んだのは、ハルが茂の家へ来て二か月近くたってからだった。

加代子は立ち会わなかった。木曜に訪ねると、書類の入った封筒が棚に置かれ、その横に新しい首輪があった。

落ち着いた茶色で、小さな迷子札がついていた。

「青は、やめたんですね」

口にしてから、加代子は袋に入れたリボンを思い出した。

「どれが似合うか分からなくて。店でずいぶん迷いました」

茂は照れた顔をした。加代子も、リボンの話はしなかった。

ハルは首輪より、それを持つ茂の指を嗅いでいた。

それからさらに季節が一つ進んだ。

ハルの歩き方は、やはりほかの犬と違っていた。疲れやすく、遠くへは行けない。通院は続き、調子が悪くて散歩を短く切り上げる日もある。

茂は作業場の仕事を週二日続けた。木曜の午後は加代子が留守番に来て、もう一日は茂が短い時間で帰れるようにした。

加代子にも都合がある。来られない日は早めに伝え、茂は施設へ相談した。頼む電話をかける前に、何度も時計を見ることは、少しずつ減ったようだった。

散歩の途中で、ハルの前脚について尋ねられることもあった。

一度、加代子が一緒に歩いていると、近所の人が「かわいそうに」と声をかけた。

茂はリードを短く持ち直した。

「長くは歩けませんけど、この角までは来るんです」

ハルはその角にある草のにおいを嗅いでいた。話が終わっても動かず、茂が苦笑した。

「ここからが長いんですよ」

加代子は先へ急がず、少し離れて待った。

木曜の留守番にも、決まった流れができた。

加代子が水を替え、ハルと庭へ出て、戻ったら自分のお茶を入れる。ハルは窓辺で眠るが、茂の帰るころになると、玄関へ続く廊下のほうへ体を向けた。

車の音がしても、違う車なら顎を戻す。茂の車が止まると耳が動き、鍵の音で起き上がった。

加代子は手を貸さずに見守った。

ハルは寝床を出て、途中で一度休み、それから玄関へ向かった。茂は扉を開けてもすぐには入らず、ハルが近づく場所を空けていた。

「ただいま。今日もちゃんと寝たか」

靴を脱ぐ茂の膝へ、ハルが鼻を寄せる。

その姿を見届けて、加代子は鞄を持った。夕飯の買い物をして帰るつもりだった。明日は自分の用事があり、次に来るのは一週間後になる。

「じゃあ、また木曜に」

茂が礼を言い、ハルは玄関までついてきた。加代子が靴を履くと、少し首を傾げたが、そのまま茂の足元へ戻った。

もう戸口を見続けてはいなかった。

加代子が忘れ物の眼鏡を取りに一度だけ戻ると、茂は居間の床に座っていた。作業着の袖をまくり、ハルの届くところへ手を置いていた。

ハルは鼻を近づけ、その手を確かめてから、横になった。

ハルの尻尾が、茂の作業着の袖を小さく二度叩いた。

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