片方の指先だけが黒くなり、手首の内側に、小さな字で名字が書かれていた。
由紀はそれを鞄に入れた。
待避所に着いたとき、車のそばには竹内と施設の職員、それから搬送を待つ業者がいた。
テツは毛布の上に伏せていた。目は開いていたが、由紀が車を降りても、すぐには顔を上げなかった。
「テツ」
耳が動いた。
由紀がもう一度呼ぶと、ようやく首を持ち上げた。鼻が小さく動き、前脚に力が入った。
由紀は砂利の上にしゃがんだ。
「迎えに来たよ」
テツは立ち上がり、二歩進んだ。けれど父の車のドアを振り返り、そこで止まった。
由紀の目には、窓の内側に残った鼻の跡が見えた。いつも助手席から外を眺めていたテツの、丸い汚れだった。
「お父さん、ここにいたんだね」
言ってから、喉がつまった。テツの前で泣けば困らせるような気がして、由紀は唇をかんだ。
搬送車のエンジンがかかると、テツは急に父の車へ戻ろうとした。首が低くなり、喉の奥で小さな音を立てた。
竹内が業者に手を上げた。
「少し、待ってください」
エンジンが止まった。
由紀は引き綱を引かなかった。車のそばまで一緒に戻り、ドアの下に座った。
近くで見ると、テツの毛には細かい砂が入り込み、迷彩柄の布は固く汚れていた。昔の作業着から父が切り取った布だった。父は、首輪が毛にこすれるからと言って巻いていた。
由紀は鞄から手袋を出した。
テツの鼻先へ差し出すと、すぐに鼻が寄ってきた。縫い目をたどるように嗅ぎ、由紀の手ごと押した。
「返そうと思ってたのにね」
その一言で、涙が落ちた。
テツは手袋を嗅いだまま、由紀の膝に体を預けた。思ったより軽かった。正月に抱えたときは、腰にずっしり重さが来たのに、今は肩の骨が手に触れた。
由紀はテツの首の下へ腕を回した。
父が散歩を終えるときの言い方を、ふと思い出した。
「よし。帰ろう」
テツは顔を上げた。
由紀が立つと、前脚を一本持ち上げた。足を拭いてもらうときの、あのしぐさだった。
由紀は手袋をはめず、両手でその足を包んだ。
「うん。こっちでいいよ」
自分の車までの短い距離を、何度も止まりながら歩いた。テツは振り返ったが、そのたびに由紀も止まった。
施設の職員に手伝ってもらい、後部座席へ体を支え上げた。由紀は父の手袋を、テツの顎の近くに置いた。
搬送車が動き出したとき、テツは窓へ鼻を向けた。車が見えなくなっても、しばらくその姿勢のままだった。
由紀は運転席に座らず、隣で背中を撫でていた。
その日のうちに、テツは動物病院へ連れていかれた。
脱水があり、体力も落ちていた。もともと弱っていた後ろ脚には、長く同じ姿勢でいた負担も出ているという。
由紀は診察室で、分からないことばかり尋ねた。
「また歩けますか」
獣医師は、まず体を休めながら様子を見ましょうと答えた。すぐ元どおりになるとも、ならないとも言わなかった。その答えに、由紀は少し落ち着いた。
二日後、テツは由紀の家へ来た。
犬と暮らせる平屋の借家だった。父とテツが泊まったこともある。それでも、前に来たときとは違った。
テツは玄関で立ち止まり、後ろを見た。父が靴を脱ぐ場所を、空けているように由紀には見えた。
「今日は私だけ」
由紀はしゃがみ、足を拭いた。
テツは廊下へ入ったが、用意した寝床には行かず、玄関の見えるところに伏せた。
その晩、由紀は何度も目を覚ました。
爪が床をこする音がする。起きると、テツが玄関に立っていた。外から車の音がすると耳を上げ、通り過ぎると、また伏せる。
由紀は居間から座布団を運んだ。
「私も、今はあんまり眠れない」
返事はなかった。テツの脇腹がゆっくり上下していた。由紀はその間隔に合わせるように、息を吐いた。
父の葬儀や手続きで家を空ける日は、病院から紹介された預かり先に頼んだ。テツは迎えに行くたび、立とうとして足を滑らせた。
預けたことがかわいそうで、由紀は必要以上に急いで帰った。けれど慌てて玄関を開けても、器の水は空になるし、洗濯物もたまる。父が残した書類は、夜になると文字が頭に入らなかった。
三週間ほどたった朝、テツが廊下で粗相をした。
由紀は出勤前だった。拭き取る紙が足りず、戸棚を探すうち、つい声が大きくなった。
「少し待って。今やるから」
テツが体を低くした。
由紀は手を止めた。怒ったつもりはなかった。けれど、犬にそんな区別がつくはずもなかった。
床を拭き終えると、出勤用の上着のまま、テツのそばに座った。
「ごめん。あんたに言っても、しょうがないのに」
テツは近づいてこなかった。由紀は追いかけず、時計を見ながら数分待った。やがて、鼻先が由紀の膝に触れた。
その日の昼休み、由紀は預かり先に電話をした。
毎日一人で何とかするつもりだったが、父の暮らしをそのまま引き受けることはできなかった。由紀には仕事があり、朝も夕方も父ほど時間をかけられない。
週に二度、帰りが遅くなる日は世話を頼むことにした。費用の分だけ、買い物の予算を組み直した。
職場では、事情を話して昼休みに帰れる日を調整した。車で十分の距離が、そのとき初めてありがたく思えた。
テツは食べる量を少しずつ戻したが、散歩は短かった。
角まで行って引き返す日もあれば、家の前から動かない日もあった。由紀が「もう少し」と声をかけると、テツは横の側溝を嗅いで、聞こえないふりをするように顔を背けた。
父が電話で話していたことを思い出し、由紀は初めて声を出して笑った。
「お父さんにも、それやってたんでしょう」
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