錆びた車から離れない老犬が前脚を上げたとき、警察官は運転席に残された人影に気づいた

テツはしばらく草の匂いを嗅ぎ、満足したように向きを変えた。

ひと月後、由紀はテツを連れて父の家へ行った。

家の片づけは、まだほとんど進んでいなかった。食器棚も、読みかけの新聞も、そのままだった。けれどテツの物だけは、先に確かめておきたかった。

玄関の戸を開けると、テツの歩みが速くなった。

由紀の前を抜け、居間へ入る。父の椅子を嗅ぎ、座布団の周りを一周した。それから台所へ行き、床に残っていた水の器の跡を嗅いだ。

由紀は、名前を呼びかけてやめた。

テツは奥の部屋まで行き、戻ってきた。もう一度、玄関へ顔を向けたあと、父の椅子の下に伏せた。

由紀は湯を沸かした。

一人分の茶をいれ、父の椅子の向かいに座る。足元で、テツが小さく動いた。けれど顎を置く靴下のつま先は、そこにはなかった。

戸棚の脇には、犬の食事を量る小さな容器が置いてあった。壁のカレンダーには、通院日と、フードを買った日が書かれていた。

由紀が来る日の欄には、ただ「由紀」とあった。

その次の週に、父は自分で「庭の草」と書き込んでいた。

由紀はしばらく、その文字を見ていた。

父があの日どんな具合だったのか、車を止めて何をしようとしたのかは、結局分からなかった。持病はあったが、電話では大丈夫としか言わなかった。

最後にテツへ声をかけたのか。それも、誰にも分からなかった。

由紀はカレンダーを外さず、テツの器を洗った。

帰る支度を始めると、テツは父の椅子の下から出てこなかった。呼んでも、目だけを動かす。

由紀は引き綱を持ったまま座った。

ここへ連れてくれば、かえってつらくなるのではないか。来ない方がよかったのか。そんな考えが、何度も浮かんだ。

けれど、テツが何を感じているかを、由紀が決めることはできなかった。

台所の片づけを終えるまで待ち、使い慣れた毛布を鞄に入れた。最後に父の椅子へ手を置いてから、テツの方を向いた。

「よし。帰ろう」

テツはゆっくり立った。

玄関で前脚を持ち上げたので、由紀は乾いた足を、いつものように一度ずつ拭いた。

父の家から戻った晩、テツはまた玄関で長く待った。

由紀は、もう落ち着いたと思っていた自分に気づいた。食べるようになり、散歩にも出る。それだけで、何かが片づいたつもりになっていた。

その日は座布団を持っていかず、玄関近くに自分の読みかけの本を運んだ。テツがそこにいたいなら、しばらく付き合えばよかった。

数ページ読んだところで、テツが立ち上がった。由紀の脇を通り、居間の毛布へ向かった。

由紀は本に指を挟んだまま、あとをついていった。

秋が深まる頃、テツの迷彩柄の布を洗った。

ほつれた端から糸が出ていたので、由紀は苦手な針仕事をした。縫い目は父のものより曲がった。テツは途中で布を嗅ぎに来て、由紀の肘を鼻で押した。

「今、直してるんだから」

父もこんなふうに言っていたのだろうかと思うと、少し笑えた。

革手袋は毛布のそばにあった。初めの頃のように、テツが毎晩そこへ鼻を押しつけることはなくなった。掃除のために動かしても、顔を上げるだけになった。

ある朝、由紀が手袋を棚に置いたまま忘れていても、テツはいつもどおり朝の食事を食べた。

由紀は、それを見てほっとした。ほっとした自分が、少し寂しくもあった。

父の墓へは、無理のない短い散歩のつもりで、一度だけ連れていった。

テツは墓石の意味など知らないだろう。砂利を嗅ぎ、水桶を運ぶ人を目で追い、由紀が腰を下ろすと隣に座った。

「この子、朝が早いの。お父さん、よく毎日付き合ってたね」

父に話しかけたあと、由紀は自分の手を見た。散歩で引き綱を握るせいか、指の付け根が少し固くなっていた。

テツが由紀の靴へ顎をのせた。

足を動かせなくなり、由紀は予定より長くそこにいた。

冬の前に、由紀は廊下へ滑りにくい敷物を足した。

テツの脚が若返ることはなかった。夜中に起きる日も、食べ残す日もあった。仕事で疲れて帰り、散歩の支度をする前に座り込みたくなる日もあった。

それでも、玄関の鍵を回すと、奥から爪の音がした。

以前よりゆっくりだった。途中で止まることもあった。由紀は靴を脱ぎながら、その音を待つようになった。

父の写真は居間の棚に置いた。テツを連れて歩いている写真だったが、父は横を向き、テツは地面を嗅いでいた。もっとよく撮れたものを探したけれど、由紀は結局それを選んだ。

休日の朝、湯を沸かしながら父へ電話をかけそうになることが、今もある。

テツが昨日より長く歩いたとか、洗ったばかりの毛布に土をつけたとか、話すことはむしろ増えていた。

由紀は携帯を置き、足元へ目を向ける。

「今日は橋の手前まで行こうか」

テツは声を聞いて立ち上がり、玄関へ向かいかけた。まだお茶を飲んでいないと言うと、戻ってきて由紀の足に鼻をつけた。

急がせるつもりなのか、ただ匂いを嗅いだのか、由紀には分からない。

椅子に座ると、テツは少し窮屈そうにその下へ入った。父の家の椅子より低いのに、そこが気に入ったらしかった。

由紀は両足をそろえ、いつもの場所を空けた。

台所で湯が沸くと、テツは由紀の足元に顎をのせた。

上部へスクロール