段ボールの底が抜けて小さな犬が転げ出たとき、その曲がった前脚より先に、加代子の目に入ったのは振ろうとしている尻尾だった。
施設の駐車場を出ていく軽トラックの音が遠ざかった。加代子は抱えていた洗濯物の籠を置き、階段を下りた。
犬は立とうとしていた。右の前脚で体を押し上げたが、内側へ曲がった左の前脚にはうまく力がかからない。痩せた後ろ脚が震え、顎が地面に触れた。
「動かなくていいよ。今、行くから」
加代子がしゃがむと、犬は耳を伏せた。差し出しかけた手を止め、上着を脱いで地面に広げる。犬はその袖のにおいを嗅ぎ、ほんの少し鼻先を載せた。
壊れた箱には、薄いタオルと二つに折った紙が残っていた。
〈生まれつき足が悪いです。飼えません。〉
名前も、これまで食べていたものも書かれていなかった。
犬の首には色の薄れた青いリボンが巻かれ、結び目が左耳の後ろへずれていた。端はほつれ、毛と絡んでいた。
施設の責任者の山岸が毛布を持ってきた。加代子は犬の体を持ち上げようとして、細さに戸惑った。両手の中で背中の骨が分かった。
そのとき、犬の尻尾が上着の袖を一度だけ叩いた。
町外れの保護施設は、空いた事務所を改装した小さな建物だった。職員は三人で、ほかは曜日を決めて来る手伝いの人たちが支えていた。
六十三歳の加代子は、週に三日、午前中だけ来ていた。犬舎の掃除や洗濯が主な仕事で、犬を迎えた経験はなかった。
四年前に夫を亡くしてから始めたことだった。最初は家にいる時間を減らしたかった。今では、誰が毛布の角を噛むか、誰が床を拭くモップを怖がるかも分かるようになっていた。
それでも、抱いた腕の中で震え続ける犬を前にすると、知っていることはひどく少なかった。
提携している動物病院で診てもらうと、生後八か月ほどの雄だということだった。薄茶色の毛に白い胸元があり、本来はもう少しふっくらした顔なのだろうと思えた。
獣医師は画像を示しながら、左の前脚は生まれつき骨の形や関節に問題があると説明した。治療で負担を減らせる可能性はあるが、普通の形になるとは限らないという。
肋骨には古い骨折の痕もあった。
「どうしてこうなったんでしょう」
加代子が尋ねると、獣医師は少し間を置いた。
「これだけでは分かりません。ただ、十分な世話を受けられていなかったことは、体の状態から考えられます」
青いリボンも、その場で外された。誰が何のために結んだのかは分からなかった。加代子は小さな袋に入れてもらい、預かり品として施設へ持ち帰った。
その日の夕方、山岸が犬の記録用紙を前に言った。
「名前、どうしましょうか」
加代子は隣の部屋を見た。犬は毛布に伏せ、開いた戸のほうへ顔を向けていた。
「ハルはどう。呼びやすいから」
試しに呼んでも、犬は振り向かなかった。それでも用紙の名前の欄が埋まると、食事や体重や通院の記録が、その名前の下に少しずつ並び始めた。
ハルは金属の食器を怖がった。
床に置くときに縁が鳴ると、首をすくめて犬舎の奥へ下がった。手を伸ばせば目を閉じ、毛布を替えようとすると腹を床へ押しつけた。
加代子は浅い樹脂の器を使い、世話の前に声をかけるようにした。
「水を替えるよ」
「今度はこっちを拭くね」
返事を待つつもりはなかった。ただ、自分の手が急に動かないように、言葉を挟んだ。
ハルはなかなか食べなかったが、加代子が少し離れ、別の犬の毛布を畳んでいると、器へ鼻を寄せることがあった。
片づけの終わる時刻になると、不自由な脚で犬舎の前まで出てきた。誰かが通るたびに顔を上げる。加代子が帰り支度を始めても、その顔は戸口に向いたままだった。
ある日、加代子は犬舎の外に腰を下ろした。
「今日は帰るの、少し遅くてもいいんだ」
買い物は済んでいた。夕飯は昨日の煮物が残っている。家へ急ぐ理由を数えて、どれも急ぐものではないと気づいた。
ハルは加代子の膝ではなく、床に置いた手を見ていた。
「うちの人もね、最後は靴下を履くのが大変だったの」
夫が病気になったとき、加代子は先回りして何でも手伝った。早く済むほうが楽だろうと思っていた。
一度だけ、夫に手を払われた。
自分でやってみる時間まで取らないでくれ、と言われた。
「あのときは腹が立ったけど」
加代子は指を動かさずに待った。
ハルが顔を寄せ、節の太くなった人差し指に鼻を触れさせた。湿った感触が一瞬だけ残った。
加代子は撫でたい気持ちをこらえた。ハルは自分から近づいた場所に、しばらくとどまっていた。
茂が施設に来たのは、その翌週だった。
六十八歳で、長く建具の仕事をしていたという。施設の裏口の戸が床を擦るようになり、山岸の知人を通じて修理を頼まれていた。
「こっちは直りましたよ」
工具箱を提げた茂が事務所へ戻る途中で、犬舎の前に足を止めた。
ハルは毛布から半分だけ体を出していた。茂が一歩近づくと、前脚を引き寄せた。
茂はそこで止まった。
「見るだけにしておくか」
誰に言うともなくつぶやき、少し離れた椅子に腰を下ろした。
加代子がお茶を持っていくと、茂は犬舎の入口にある低い段差を指した。
「あそこを越えるの、毎回大変そうだね」
翌々日、茂は端に丸みをつけた小さな渡し板を持ってきた。勝手には取りつけず、山岸に使ってよいか確かめた。表面には滑りにくい素材が貼ってあった。
ハルは最初、その手前で止まった。板のにおいを嗅ぎ、右の前脚を置いて、すぐ戻した。
茂はしゃがんだまま待っていた。
「試してるところだな」
やがてハルは板を越えた。ほんの数歩の移動だったが、加代子は思わず茂を見た。
茂はもう工具を片づけていた。
手術の話が具体的になったのは、ハルが来て二週間ほどたったころだった。
まず体力をつけ、詳しく調べる必要があった。手術を受けても、通院や日々の手助けは続くだろうという。費用も、施設にとって小さな額ではなかった。
山岸は見積もりを広げ、予定していた設備の修繕を後へ回せるか考えていた。
「治療だけ受ければ終わり、ではないんですよね」
加代子が言うと、山岸はうなずいた。
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