錆びた車から離れない老犬が前脚を上げたとき、警察官は運転席に残された人影に気づいた

錆の浮いた車のそばで、老犬が震える前脚を一本持ち上げたとき、竹内は伸ばしかけた手を止めた。

犬は吠えなかった。逃げもしなかった。ただ、へこんだ運転席のドアに肩をつけたまま、竹内の顔を見上げていた。口の周りは白く、首に巻かれた色あせた迷彩柄の布には、砂と枯れ草がついていた。

「大丈夫だよ。水を持ってきたから」

竹内が浅い容器を差し出しても、犬は鼻を近づけただけだった。持ち上げていた足をゆっくり下ろし、また車内へ顔を向ける。

県道の旧道に残された、小さな待避所だった。新しい道ができてからは、地元の人が抜け道に使う程度になっていた。

犬が道路に出そうだという通報で、竹内は来た。四十五歳になり、警察官として二十年以上働いていたが、犬の扱いには特別慣れているわけではなかった。

少し離れた場所に、軽トラックの運転手が立っていた。

「おとといもいたんです。誰かが畑にでも来てるのかと思って」

車の後輪は一本つぶれ、窓には汚れがこびりついていた。犬は何度かドアの下を嗅ぎ、そのたびに運転席を見上げた。

その視線を追ったとき、竹内は初めて、中に人がいることに気づいた。

男性がハンドルの方へ身を倒していた。助手席には水筒と小さな旅行鞄があり、足元に犬用の器が転がっていた。

竹内は無線を取り、救急車を要請した。

ドアを開けようとすると、犬の背中が固くなった。竹内は手を止め、姿勢を低くした。

「この人を見せてもらうよ」

犬が言葉を理解したかどうかは分からない。それでも、しばらくすると半歩だけ横へ動いた。竹内はその隙間からドアを開けた。

男性の手の近くには、青い引き綱があった。

犬は開いたドアへ鼻を差し入れ、男性の膝を嗅いだ。それから、低く短い声を漏らした。

救急隊員が男性を車から運び出すと、犬もついていこうとした。けれど後ろ脚がもつれ、その場に座り込んだ。立とうとして、また腰を落とす。その喉から、さっきより長い声が出た。

竹内は犬のそばにしゃがんだ。何を言っても届かない気がして、しばらく声をかけられなかった。

男性の死亡が確認されたあとも、犬は車のそばを離れなかった。

通報を受けて来た保護施設の職員が、犬の状態を確かめた。水の容器を少し離して置くと顔を背けたが、ドアの真下へ寄せると、ようやく舌をつけた。

「急がせない方がよさそうですね」

職員はそう言い、毛布を地面に広げた。犬は前足だけを毛布にのせ、車を見上げていた。

首輪の内側には、かすれた文字で「テツ」と書かれていた。

読み取れたマイクロチップの登録と男性の所持品から、身元が分かった。市川修一、七十二歳。住所は隣の県だった。

竹内が娘の由紀に電話をかけると、相手は最初、道を間違えた父親の代わりに連絡が来たのだと思ったようだった。

「父、携帯の地図が苦手で。今、どの辺りですか」

竹内は一度息を整えた。

話し終えるまで、由紀は何も言わなかった。電話の向こうで、何かを机に置く音がした。

やがて、かすれた声が返ってきた。

「犬は。一緒に、犬がいたはずなんです」

「テツという犬ですね。そばにいます」

由紀が息を吸った。その音だけが、妙にはっきり聞こえた。

「私のところへ来る途中だったんです。昨日の昼には着くって」

前日、由紀は何度も父に電話をしていた。夕方には父の近所の人に家を見てもらい、帰っていないと分かって、警察にも相談していた。

父は以前にも途中で疲れて泊まり、翌日になって連絡してきたことがあった。

「だから、またそうなのかと思いたくて」

竹内は、犬が衰弱していること、車から離れようとしないことを伝えた。

「迎えに行きます。テツを、お願いします」

電話が切れたあと、竹内は犬の前にしゃがんだ。

「テツ。由紀さんが来るって」

犬の耳がわずかに動いた。ただ、名前に反応したのか、竹内の声に反応したのかは分からなかった。

四十六歳の由紀は、電話を置くと、出したままだった茶碗を流しへ運んだ。父が来たら使うつもりで、一つ余分に洗ってあった。

戸棚を開けて戻そうとしたが、手が止まった。結局、茶碗は台所の隅に置いた。

父は八年前に妻を亡くしていた。その少しあと、近所の譲渡会から、四歳の雑種犬を迎えた。

「鉄みたいな色だろう」

父は灰色がかった背中を撫で、テツと名づけた。若い頃、陸上自衛隊で車両の整備をしていた父らしい名前だと、由紀は思った。

テツは人に飛びつかず、知らない物音がすると立ち止まる犬だった。父はそれをおとなしいと言い、由紀は用心深いのだと思っていた。

父との暮らしで覚えたことも多かった。

玄関では足を拭かれるまで待つ。車に乗る前には、差し出された手の上へ前足をのせる。散歩の帰りに父が茶をいれると、椅子の下へ入り、靴下のつま先に顎を置く。

父は電話で、自分のことよりテツのことを話した。

「今日は橋まで行かなかった。途中で帰るっていうんだ」

「お父さんが疲れたんじゃないの」

「俺はまだ歩けるよ」

けれど最近は、その返事までに間があった。

由紀は、テツを連れて何日か泊まりに来たらと誘っていた。父の足取りも、テツの後ろ脚も、正月に会ったときより頼りなくなっていたからだ。

父は何度か断ったあと、ようやく「じゃあ、二泊だけ」と言った。

その二泊分の布団が、今も隣の部屋に敷いてあった。

由紀は車の鍵をつかみ、玄関のかごから古い革手袋を取った。

去年、父が庭の物置の棚を直したときに忘れたものだった。何度も返しそびれ、今度こそ渡そうと、数日前から出してあった。

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